フランスワーホリ中の筆者は約10ヶ月住んだ南仏ニースを離れてヨーロッパを周遊中。
ポーランドのクラクフではユダヤ人大虐殺の地となったアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の見学に向かいました。
そこで見たものは信じられないような悲しくなるばかりの写真や資料の数々。決して目を背けてはいけない過去の事実でした。
現地の資料をそのまま掲載していますので(ガリガリに痩せ細った人や犠牲者の遺品など)苦手な方は閲覧の際ご注意ください。
ちなみに筆者自身もあまりにショックで、この記事を書くまでこれらの写真は見返すことが出来ませんでした。
※この記事は2013年4月から2014年4月の1年間、フランスにてワーキングホリデーで滞在していた頃の思い出し日記です。情報が少し古いのでご注意下さい。
前回はクラクフの街を散策しました↓↓
【フランスワーホリ】第64回:恐怖のパリ空港泊からのポーランドクラクフ滞在。見慣れぬ言葉と通貨に大苦戦【南仏留学】月曜更新
アウシュヴィッツを訪れるにあたって
本編に入る前にまずは軽く釈明(?)させてください。
もともと筆者はアウシュヴィッツを訪れるためにヨーロッパ留学を決めたと言っても過言ではありません。
小学生の頃に読んだ「アドルフに告ぐ」や「アンネの日記」、
同じく小学生の時の鑑賞会で拝見した「ライフイズビューティフル」の影響で
幼い頃からアウシュヴィッツの存在は筆者の中にありました。
信じられない気持ちと見ておかなくてはいけないという使命感でずっとアウシュヴィッツを訪れることを夢見ていました。
多くのユダヤ人迫害に関する資料やその他の強制収容所の情報、実際に訪れた方のレポートなどこまめに目を通すようにしていました。
そんなわけで自前ではありますが充分な覚悟と前情報を持って今回のアウシュヴィッツ訪問に臨んだのです。
臨んだのですが・・・実際のその場の雰囲気は、想像の遥か上を行っていました。
アウシュヴィッツのアクセス
「アウシュヴィッツ」はあくまでドイツ語。ポーランドではオシフィエンチムと言います。
ポーランド中心駅からバスが出ているのでそれに乗っていけば迷うことなく目的地につきますよ。
大きなバスセンターでチケットを販売していて、窓口対応ですが「オシフィエンチム」といえば簡単に切符が買えます。
外国からの訪問者が多いので単語でも十分に対応してくれます。
駅前でもオブバジャンキを売っていました。
値段設定はちょっとお高め。
ちなみにバスセンターにコインロッカーがありました。ヨーロッパで初めて見かけた!治安が良いということなんでしょうね。
バスチケットは5ズウォティ(約160円)で60分の移動です。安い。
車窓は基本的に建物のない広い原風景です。穏やかな陽の光が美しいですね。
アウシュヴィッツの資料
バスはアウシュヴィッツ博物館(アウシュヴィッツ強制収容所跡)に到着しました。
こうして見ると本当に長閑な景色で、気軽に歴史博物館へ向かうかのようです。
しかし券売所の前からすでに当時のアウシュヴィッツを紹介した説明板があります。
上空からの写真では収容施設の規模が伺えます。
多すぎるバラック(簡易な小屋)に数え切れないほどのユダヤ人が収容されていたと思うとゾッとします。
ひとまず券売所でチケットを購入します。パンフレットも購入制ですが日本語のものがあったので助かりました。
その他にも様々な国の言葉に訳されたパンフレットが用意されていました。
それだけ多くの人が見るべき施設なのでしょうね。
こちらは有名な収容所門です。
ドイツ語で「働けば自由になる」という意味らしいですがBの文字が逆さまになっています。
この門を作らされたユダヤ人たちがわずかな抵抗として文字を逆にして打ち付けたという逸話が残っています。
そして当時のユダヤ人たちがその門をくぐるとそこには、二度と終わらない悪夢が待ち構えているのです。
アウシュヴィッツ強制収容所はドイツ軍が敗走の際に証拠隠滅のため爆破したため、現在見れるものはほとんどが復元されたもので博物館として使用されています。
多くの建物の中にびっしりと資料が飾られており、たった5年間の使用でどれほどの出来事が起こったのか想像が出来ません。
ここからは写真とその説明をざっくりお伝えしていきます。
正直言うと現地で見る恐怖感はレポートでは伝え切れません。
雰囲気だけでも掴んでいただき、ぜひ現地を訪れて欲しいと思います。
収容者たちが着せられていた服と壁には犠牲者の写真
収容者リスト
収容者もランク分けされており、功績者などは監査役などの仕事が与えられていました
穴を掘っては埋めるという意味のない作業を延々と続けされられる収容者達
各国のガイドさんによる説明も行っています。
日本人のガイドさん(有料)もありますが筆者はタイミングが合わずでした。
収容所に向けて歩かされるユダヤ人たち
没収された荷物はすべて廃棄となります
ユダヤ人の他にもジプシーなども収容されていました
収容所へ向かう列車の中を再現した模型。
立っているのがやっとのほどの混雑で何時間も列車に揺られていたそうです。
女性と子供は労働力にならないため、到着後すぐに毒ガス室に送られました
赤い枠の中に逃げ出す裸の女性が写っています
毒ガス室を再現した模型です。
シャワー室と嘘をつかれて毒ガス室に入ったユダヤ人たちは、毒ガスを投げ込まれて次々に息絶えていきます。
それらの死体を処理するのもユダヤ人たちの仕事でした
毒ガス室から回収した遺体を燃やす光景
使用された毒ガスの空き缶
収容者達から没収したメガネ
義足も遺体から回収していたようです
返すつもりもないのに、カバンに名前を書かせて収容所に向かう列車に乗せていました
収容所内では暴力が当たり前のように振るわれていました
収容者にはすべて番号が振られ、その番号の刺青が彫られます
恐らく解放後の写真だと思いますが2歳児の写真です。本来であれば2歳児といえば元気に走り回って言葉も喋りだす頃ですが、この子供は痩せ細っていてとても歩けるような状態ではありません。
こちらの女性も解放後ですが長期に渡ってのケアが必要な状態でした。
囚人達の食事。泥水のようなスープとパンひとかけらの食事が1日1回だけ与えられていたそう。
収容所の様子が描かれています。
多くの人がすでに自分で歩くこともままならなくなっているのがわかります。
ジプシーの子供達も痩せ細った姿で写されています
電気柵の向こうから自由を眺める子供達
トイレ
アウシュヴィッツのトイレは便器の形をしているだけでまだマシな方です。
水場
寝台。ここは比較的しっかりしている方です。
ビルケナウのトイレはもはやただ穴が空いているだけです。
痩せ細りすぎてこの穴に落ちてしまう人もいたんだとか
後期になると寝台はただの棚になり、藁が敷き詰められているだけ
床に敷き詰めるように寝かされている人もいました
外に出てバラックの間を歩いて行き・・・
ここだけ建物の窓が塞がれています。その理由は…
奥の壁が銃殺場なんです。
壁の前に収容者を並べて銃殺をしていたそうです。
壁の前には多くの花が手向けられていました。
当時の様子です。
壁に遺書のようなものも残されていたようです
刑罰場
収容所はトゲのついた電気鉄線で覆われていて、収容者達が逃げられないようになっていました
アンネフランクの写真
当時制圧していたパリのエッフェル塔前を歩くヒトラー
凱旋門を横切るドイツ軍
外に出ると絞首台がありました
そしてついにガス室
今でこそ中に入って、見学をして、無事に外に出て来れますが、当時は一度中に入ってしまえば死体となって出てくるしかありませんでした
ガス室はこのように殺風景です
天井のこの穴から毒ガスが投げ込まれました
壁には毒から逃れようとパニックになり上へ上へ逃げようとした人たちの手の跡が残されています
死体はここで焼却されます
まだ息があっても動けない状態なのでそのまま焼かれてしまったそうです
ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツを出て、シャトルバスでビルケナウへ移動します。
ビルケナウ強制収容所はアウシュヴィッツに収容しきれなくなった収容者たちのために作られました。
ここのバラックもほとんどドイツ軍敗走の際に多くが爆破されてしまいましたが、そのまま残っている施設もあります。
現在ではだだっ広い土地でしかないのですが、強制収容所として使用されていた頃のことを思うとこんなに広い敷地に殺されるのを待つだけの人が詰め込まれていたのかと思うと震えが止まりませんでした。
ビルケナウに続く線路が単線で一方通行の意味を強調していました。
この門の向こうには絶望しか待っていなかったのでしょう。
アウシュヴィッツと同じく電気鉄線で囲われています。
収容者を運ぶ貨物車がありました。窓もなくてとても人を乗せる乗り物とは思えません。
当時は両側にびっしりと収容者の眠るバラックがあったそうです
信じられない広さの土地です
ビルケナウのガス室は証拠隠滅のため爆破されました
ガス室に行く前でしょうか、一度本当にシャワーを浴びせていたようです
犠牲者達の普通の生活だった頃の写真が飾られていました。何も違わない同じ人間なのになぜこのような仕打ちを受けなければいけなかったのか。幸せそうな笑顔ですら、どこか物悲しく感じてしまいます
ガス室で殺され、焼却された遺体の骨や灰はこういった施設内の池に無造作に捨てられていたらしいです
現在ではほとんど回収され埋葬したようですが、灰などはそのままなのではないでしょうか
慰霊碑がありました。
今でも世界中から花が届くようです
残されたバラックの中も見学できました。
アウシュヴィッツよりも簡素な作りで、とても人間が寝る場所とは思えません
ポーランドの冬は日本よりもさらに冷え込みます。
布切れ一枚の囚人服を着せられ、満足に食事も取れず毎日朝から晩まで労働、寒いバラックの中の硬い寝台で眠ることはどれほど辛かったのでしょう
全体を見ていて思ったのが、アウシュヴィッツはまだ労働などをさせてある程度収容の意味を持たせていましたが、ビルケナウは人を一時的に収容して処分するためだけの施設という感じでした。
命の価値がおかしくなってしまいそうです。
ビルケナウはほとんどが証拠隠滅のために破壊されてしまい建物としての資料はあまり残っていません。
それでも、この場に来てこの広い敷地を見れば当時の凄惨さがありありと伝わってきます。
アウシュヴィッツのどんな資料よりも、ビルケナウの敷地の方がよっぽどこころに訴えかけるものがありました。
胸が詰まる思いのまま、アウシュヴィッツ・ビルケナウの犠牲者に深く一礼をしてその場を後にしました。
クラクフへ戻って気持ちの整理とディナー
アウシュヴィッツから戻った筆者は一旦ホテルに戻り、wifiを使って友人に電話(LINE電話)をしました。
電話の相手はイギリスで仲良くなった世界一周旅行者。
その方は私よりも先にアウシュヴィッツ・ビルケナウを訪れていて以前に感想などを聞かせてくれていました。
筆者自身もこの日見たもの、感じたことをどうしても整理したくて・・・というか整理しないといてもたってもいられない状態になってしまい、状況のわかるその友人に電話をした次第でした。
2時間くらい話を聞いてもらったりディベートしたりしてなんとか感情を整理しました。
先述の通りアウシュヴィッツ・ビルケナウについては充分な知識と覚悟を持って臨んだつもりでしたが、直接現地を見てしまうと想像の遥か上だったなと感じます。
その後なんとか気持ちを整理して、改めてクラクフ観光再開!
ディナーは中心地近くのバーに入りました。
黒ビールとポテトパンケーキを注文。
黒ビールめちゃうま!
あまりビールは得意じゃないのですが雰囲気とか本場?で美味しく感じるものですね。
ポテトパンケーキはデミグラスソースのようなものもサワークリームがかかっています。
そういえば旧ソ連はサワークリーム文化ですもんね。あんまりサワークリームは得意ではないのですが、デミグラスソースと一緒に食べれば大丈夫でした。
ポテトパンケーキは平たいフライドポテトという感じ。
ビールに合います。
2点で38ズウォティ。約1,216円です。
ちょい飲み価格ですね。ごちそうさまでした。
まとめ
何度も言ってしまうけど、アウシュヴィッツ・ビルケナウは写真やレポートだけでは伝わりません。
最大規模の収容所がここにあっただけで、当時は実際にはヨーロッパ中に同様の強制収容所がいくつもあったんですよね。
アウシュヴィッツで解放された人が別の収容所に連れて行かれたという話も残っています。
とても辛い記憶だけど、二度と戦争やこのような悲劇を起こさないためにも全世界の人間がこの施設を見学するべきだと思います。
日本からだとちょっと遠いのが難点ですが、ぜひ訪れてみてくださいね。
次回は引き続きクラクフの街を観光します!
極寒の中、クラクフ動物へ行ってきました。とにかく極寒!(笑)の様子をご覧くださいませ。
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